思い出せない物語について

先日ふとした折に、
「あれ、なんて作品だったっけな」と
思い出せない物語のことに考えが至りました。

映画だった気もしますし、小説だったかもしれません。
あるいは漫画やゲーム、もしかしたら音楽だった可能性すらあります。

タイトルも監督も登場人物も舞台設定も思い出せない。
ただ、断片的な感触だけが頭の中にイメージとして残っているんです。

確か、もうこの世にはいない誰かについて、
回想や思い出をたどりながら、
その人に想いを馳せていくような話だったと思います。

不在の人物の足跡を追い、その人が見ていた風景や、
触れていたものをなぞることで、少しずつ心の距離が縮まっていく。
そんな構造だったような。

けれど、それも本当に正しい記憶なのかどうかはわかりません。
物語の輪郭は曖昧で、あらすじと呼べるほどのものすら残っていない。
ただ雰囲気だけが、やけに確かな感触として胸の奥にあるのです。

近い印象として思い浮かぶのは、
岩井俊二さんの名作『ラブレター』や、
永瀬正敏さん主演の映画『コールド・フィーバー』のような空気感です。
不在の人をめぐって、静かに時間が流れていく感じ。
宮本輝さん原作、是枝裕和さんが監督の映画『幻の光』も似た感触。
あるいはロバート・レッドフォードさんの
『リバー・ランズ・スルー・イット(原作タイトルはマクリーンの川ですよね)』のように、
すでに失われたものが、
語りの中でより鮮明になっていく物語だったようにも思われます。

こうした「不在をめぐる物語」に、
僕は昔から強く惹かれてきた気がします。
人は、失われてしまった瞬間にはじめてはっきりと輪郭を持ち始める。
生きているあいだには曖昧だった存在感が、
決定的な喪失によって逆説的に強度を増す。
そういう感覚です。

それは、文芸批評の大家の小林秀雄さんが『無常ということ』で
書いていたことに通じているように思います。
失われたからこそ、
ものごとは確かな実在として立ち現れる。

永遠ではないという事実がたどり着いた涅槃、
そこがかえってその存在に引力を与えるのです。
思い出せないその物語もまた、
僕の中ではすでに「不在」になっているのかも。
タイトルも形も失われているのに、
その欠落自体が、強い存在感を放っている。

思い出せないからこそ想像の余地が生まれ、
記憶は勝手に補完されてより個人的な望ましい物語へと変質していきます。

もしかすると僕は、
諦めに似た感情を求めているのかもしれません。
あるいは祈りに近いものかもしれない。

どうにもならない喪失や距離を、
無理に埋めようとするのではなく「そういうものだ」と受け入れてしまうこと。
そこに、奇妙な安心感があるのだと思います。
常なるもの、普遍的なものに触れていたいという欲求とも言えます。

すべてが移ろい、消えていく世界の中で、
それでも確かに流れ続ける営みや感情のあり方を確認したい。
そのために、不在の物語に惹かれているのかもしれません。

思い出せない物語。
もちろん思い出せたら嬉しいけど、
もう二度と正確な形では戻ってこないかもしれません。

けれど、その曖昧な残像は、
今の僕にとって十分に意味を持っています。
輪郭を失ったまま、静かに引力を放ち続ける。
その在り方自体が、ひとつの完成された物語のようにも思えるのです。

コーヒーを淹れて、
湯気の向こうにそんなことを考えている時間も悪くありません。

text by Masuda (Silent Field Coffee – Roaster / Director)